■ ザ・キッズの桐明孝侍さんをスペシャルゲストにしたい、というのはこの大会の初期から思っていた。
上記で書かれた流れで言うと、私はまさしく博多の第4世代だった。
博多の月刊誌「ビートマックス」のグラビア、FMラジオの一時期のコーナー、地元デパートで行われた私のバンドのステージ衣装や、楽器の展示会。
福岡市中に張られたポスター。
動員も半端な数ではなかった。
そんな基礎はすべて桐明さんから教わったのだ。
■ 私はロッカーズを率い、後に俳優となった陣内孝則さんの高校の3年後輩にあたる。
入学したときに2つ上にいたのが桐明さんだった。
そのバンド、ザ・キッズをはじめてみたのも高1のときだった。
彼は大学に進学、私も2年遅れて同じ大学に進学。
入学して最初に講義をさぼったのも、桐明さんの誘いが原因だった。
「?今から講義?よか、俺とジャイケンしよう。お前が勝ったら講義に出てよか。俺が勝ったら、今から俺んちに遊びに来やい。」
なんとも無茶苦茶な青春が始まったのだ。
■ 人は自分がどう見られるかを自分で決める。
バイトをしていた三信衣料で手に入れた米軍の古着のジャケットの下部を裁断し、スペンサージャケットにしていた。
「60’sはミリタリーぜ」
彼はなんとも器用だった。
スペンサージャケットに黒のスリムジーン、足元は川端通りにあったベストシューズで買ったシャープにとがったブーツ。
車は昔のミニ。
とにかくカッコよかった。
どう見られたいか?を演出することを私は覚えた。
■ 三信衣料にはときどき外国人が来ていた。
そんな外国人にはよどみなく英語で会話していた。
「近所にくさ、西南学院の留学生寮があってくさ、そこの学生たちと子どものころから行き来のあったけん、それで覚えたとたい。テストはできんばってんな。(笑)」
なんとも颯爽としていたのだ。
■ 打ち上げになると、福岡中の音楽好きが憧れるヒーローらしからぬフレンドリーさで誰とでもしゃべる。
「ありがとうね!」
と握手をする人を私は初めて見た。
そんな人はそれまでの人生で見たことがなかった。
しかし、ヒーローにこれをやられると誰でも心がとろけるのだ。
そうだ、偉ぶることなく、人とつながることは彼から私は学んだのだな。
■ 私たちのヒーローのアルバムを手に入れると、必ず彼の部屋で聞いた。そこからインスパイアされた曲が、次に遊びに行ったときにできあがっていた。しかし、どこからどう聞いても、彼の曲の方がすばらしい。
バンドをするモティベーションに「女の子にもてたい」というのはあるのだろうが、「何かを表現すること、だれも考えなかった新しいことをするのは本当に楽しい」ということを私は彼から学んだのだと思う。
■ 私は彼をライバルと感じ、追いかけたが、ついぞ背中を超すことはできなかった。彼がいたからこそできたことだ。
そして私は、いつか表現するものを変えた。武道だけは13から続け、49年間やめたことはない。だから、気づけば人ができないこともできるようになった。これも表現の一つだ。
■ 桐明さんはデビューし、ときの人になった。
ステージは巨大になり、見に行っても会うことすらできなくなった。
確かにそこからいろいろあっての今なのだと思う。
でも、どんな時代も彼は素晴らしい曲を作り続け、今ステージを見に行けば、一流のミュージシャンたちがこっそり見に来ている。
■ 緊張を一瞬で爆発させる。そんなことができるミュージシャンはそうそういない。
あの選手、そして君が、すべての勝負のピンチを切り抜け、一度も斬られず最後に立っていられるか?それを表現できる人なのだ。
だから私は桐明さんにオープニングに来てもらおうと思った。
その一曲を生で、満員の観客と共有する。
こんな居合の大会はほかにない。
ごたくはいらない。
すべては剣で証明する。
見逃すな。
国際居合道連盟鵬玉会 会長 武田鵬玉
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